2025.09.18
ショスタコーヴィチとショパン国際ピアノコンクール
いよいよ来月に迫った第19回ショパン国際ピアノコンクール。今回は過去最多となる642名の応募者の中から、厳しい審査を経て選ばれた85名が、来月ワルシャワ(ポーランド)にて開催される本大会に出場されます。85名のうち日本から選出されたのは13名、そのうちの1人が、今回共演する山縣美季さんです。ショパンコンクール本選を経験された山縣さんが、その翌月に浜松でどのようなショパン(ピアノ協奏曲第2番)を聞かせてくださるのか、とても楽しみです。
さて、今では世界最高峰のピアノコンクールとも言われるショパン国際ピアノコンクールですが、その第1回は1927年に開催され、地元のポーランド人を中心に26名が参加しました。ソ連からは、国家の威信をかけて4名のピアニストが送り込まれたのですが、そのうちの1人が、当時20歳のショスタコーヴィチでした。本番直前にかかった虫垂炎(盲腸)の痛みに耐えながら演奏したショスタコーヴィチは、その影響もあってか入賞は逃してしまいましたが、見事最終選考にまで進んでいます(最終選考には8名が進出)。ショスタコーヴィチは、第一次審査ではバラード第3番、最終選考ではピアノ協奏曲第1番(ともにショパン作)を演奏したようですが、彼のショパン演奏は、ショパン的なロマンティシズムを感じさせない独特なもので、ルバート(=テンポを揺らすこと)を用いず、強弱の対比も欠く半面、音楽の対位法的側面が強調され、細部に至るまで精密に弾き分けられた、モダンなアプローチだったそうです。ショスタコーヴィチは、作曲だけでなくピアノ演奏においても時代を先取りしていたのですね。
ところで、写真は、ショスタコーヴィチが生まれ育った街、サンクトペテルブルク(ロシア)の宮殿広場です。(ショパンコンクールとは無関係)
私が2012年に訪れた際に撮影したもので、そこには有名なエルミタージュ美術館もあるため、サンクトペテルブルクの定番観光スポットとして観光客で賑わっていましたが、広大なその広場は、ショスタコーヴィチの交響曲第11番「1905年」の題材となった「血の日曜日事件」、そして今回演奏する交響曲第12番「1917年」の題材となった「十月革命」が起こった場所でもあります。
2012年当時の平和な宮殿広場からは過去の激動は想像できなかったように、ショスタコーヴィチが生き抜いた時代の過酷さは現代に生きる我々には想像しがたいものがありますが、ショスタコーヴィチが曲に込めた思いを少しでも表現できるよう、頑張って演奏したいと思います。
(Vn T.I.)